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ヴァニッシュ中部の小さな町、ブラッドフィン。
ここは臍(ネーブル)の海に浮かぶ海洋都市の中でも、とりわけ貧富の差が激しく、治安の悪い地域であった。
古い貴族・奴隷制度がいまだに存在している所為か、度重なる都市開発や治安改善にも関わらず、
人身売買等の黒い商売が横行している程だ。
そのため例えば今のように、見るからに育ちの良さそうな美少女が、
一人でこんな路地裏に立ってたりしようものなら、たちまち売人達の目にとまってしまう。
白い肌にほんのり桜色の頬、流れるような漆黒の髪、深い闇を思わせる大きな双眸。
そのどれもが極上の商品となるシロモノな上、
身に付けているドレスも一目見てそれと解る一級品とくれば、もはや躊躇う理由などどこにも無い。

男は素早く少女の傍へ歩み寄ると、
営業用の猫撫で声で、できるかぎり優しく話しかけた。

「お嬢ちゃん、見ない顔だけど、もしかして迷子かい?」

いきなり見知らぬ男に話しかけられた少女は、しかしこれといって動じた様子もなく、
ちらりと男に一瞥をくれると、そのまま先と同じ方へ視線を戻した。

「あれ…嫌われちゃったかな?でも、怖がらなくていいよ。
俺、このあたりの治安維持を任されててさ」

そう言いつつ、偽の証明書を取り出す。
男がよく使う肩書きだった。
少女は大して興味をそそられる風でもなく、
横目でその証明書を見やり、うっとうしげに溜め息を洩らした。

(ふん…こりゃ相当な筋がね入りのお嬢様だ)

つれない態度の少女を前に、男は内心下衆た笑みを浮かべる。
この類のご令嬢は、成金共に人気が高く、高額で売りつけられるからだ。
プライドの高い娘を上からねじふせるのが堪らないらしい。

勿論それなりに危険は伴う。
もしその娘が力のある貴族の者だったりした場合、バレたら相当な罪に問われる事は明らかだ。
だがそれはそれ、売ってさえしまえばこちらには関係ない。
金さえ手に入れば、後のことなど男の知ることではない。

「とりあえず、こんな所に一人でいるのは危ないよ。
向こうに休憩所があるから、そこで名前とか聞かせてくれるかな」

ビッグビジネスの予感に、多少急いた気持ちが出てきたのだろう、
男は少し強引に少女の手をひく。

一瞬、不自然な程の静寂が訪れた。

少女の黒髪がザワリと脈打ち、それとほぼ同時に、
どさり、と重く湿った音が路地裏に響き渡る。
次いで立ち上る血の匂い。


「…汚い色の肉だこと」


にたり、と満足げに少女は微笑みを浮かべる。
その手には、真っ赤に染まって鈍く光る刃物が握りしめられていて――……







「おいコロ、てめぇ、それは何の嫌がらせだ馬鹿」

べしり。とまだ話し途中な執事の頭を叩きながら、黒髪の美少女は呆れたように声を出した。

「痛っ!あの、でもビックリしません?あんまりにも蒼兎様にそっくりで」
「…そんなキチガイ女と俺が似てるって?」

コロ、と呼ばれた執事は涙目になりながらもくいさがってきたが、
蒼兎がトゲついた台詞と共ににっこり微笑むと、ようやく己の失言に気づき口を噤んだ。







「大体、なんなんだよその話」

長年棲み慣れてきた町を離れ、北へと向かう旅の途中。
水馬車に揺られる道中はとかく暇を持て余し気味で、
元々退屈が大嫌いな蒼兎は、早くも不機嫌になりつつあった。
そこで、少しでも主人の退屈しのぎになれば、とコロが語りだしたのが先の話である。
主人を想う健気さは買うが、今は昼飯の真っ最中。
間違っても弁当をつつきながら聞くような話ではない。
そのくらいの事で食欲を無くす程ヤワではない蒼兎だが、それでも決して気持ちの良いものでもなかった。

「向こうでは有名な都市伝説らしいですよ。他にも似たような話があるそうですが」

恐らくはブラッドフィンの並外れた治安の悪さを風刺したものなのだろう。
可憐な少女と頼り無さげな青年の二人連れに同情したらしい馬車屋の主が、語ってくれた話の中の一つだった。

「東に大回りで、ソクロフィを通る方が安全じゃないか、とも言われたんですけど…」
「ヤだ。だるい」
「…ですよね」

提示した安全策をにべもなく両断する蒼兎に、コロも苦笑を浮かべる。
そう言うと思って、予め馬車屋の方に断りを入れておいたのだった。

「ほんとにこっちの航路で平気ですかい?お客さん」

御者のおじさんがチラチラとこちらを伺いながら念押ししてくる。

「あの町の治安は最悪って専らの噂ですからね。
そっちのお嬢ちゃんが良からぬ輩に襲われたりしないか、不安なんでさ」
「えぇ・・・でも、大丈夫ですよ。十分警戒はしますし・・・それにほんのちょっとだけですから、滞在するのは」

そうですかい?と、尚も心配してくれる御者に感謝しつつも、蒼兎がこの航路を変える事はまず無いので、
コロは笑って誤魔化しその場を乗り切ることにした。

(・・・それに、蒼兎様の方が都市伝説の娘よりずっと怖かったりするから・・・ね)

チラリ、とその主人を横目で見てみると、さも当然のようにコロの弁当からおかずを摘み上げている所だった。

「あ!ちょっ、蒼兎様!それ僕の一番好きなから揚げ!!」
「さっさと食わねーのがいけない」
「一つくらい残しといてくださいよおぉ!!」
「こーゆうのは全部ご主人様に差し出すのがセオリーってもんだろ」

緊張感ゼロの言い争いを始めたふたりに御者も閉口したのか、
もう航路について言ってくることはなかった。

水馬車は、ブラッドフィンへの航路を順調に滑り続けていく。

そうして真上に輝く太陽が段々と西の空に傾きはじめる頃、
単調なリズムで滑っていた水馬車が、徐々にそのスピードを緩めていった。

「お客さん、そろそろ着きますよ」

御者の言葉に、いつの間にかウトウトしていたコロが慌てて顔を上げる。
同じく船を漕いでいる蒼兎を揺り起こしながら、ふと窓の外に目をやると、
晴天にも関わらずどこか薄暗い靄のかかった陰気な島が浮かんでいた。

「海洋小都市ブラッドフィン・・・いつ見てもキナ臭い所だぜ」

御者が小さく呟く。
まるでそこだけ雨雲が立ち込めているような錯覚を起こすほど、その島は暗かった。
見てると背筋が薄ら寒くなるような気さえした。

「コロ」

唐突に名前を呼ばれて、一瞬ビクリと身体を硬直させる。
見るといつの間にか目を覚ましていた蒼兎が、不敵な笑みを浮かべてこちらを見上げている。

「怖いか?」
「・・・・少し」

挑発するような言葉にコロが小さく頷くと、蒼兎は笑って執事の頭をなでた。







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